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はじめに 

私は1980年頃から活動をはじめた。1977年くらいに大学を卒業したので70年代はほとんど学生生

活をしていて学習塾をはじめた。1980年は非行のピークといわれている時代で初期の10年間くらい

は非行少年と付き合っていた。非行のピークが過ぎたあと不登校の子どもたちが登場してきて、不登

校の会からひきこもり問題を考えるようになってきた。 

 

1. 孤軍奮闘時代を振り返る 

1980年に塾をはじめ、その後90年代くらいから不登校ひきこもりの関係の活動に入って、2000年

代から特に若者たちの問題に関わってきた。80年代はまだ20代だったため周りがよく見えていなか

った。しかも非行少年たちが日々やってくるような状況の中で文字通り孤軍奮闘してやってきた。特

に90年前後で非行少年と付き合いながら一方で不登校の子どもたちと付き合いはじめると、不登校

の子どもたちの居場所をつくって朝10時くらいから子どもたちがやってくる。夕方から本業の学習

塾をはじめ塾が終わると今度は非行少年たちがやってくる。最初の孤軍奮闘時代を振り返ると、やは

り一人ではしょうがないというのがあり、一貫してネットワークをつくらなければいけないと考えて

きたため、現在は各地でいろんなネットワークをつくり法人化している。 

90年代「不登校の子どもたちとの出会い」があり、これはもともと不登校の子どもたちの居場所を

つくったときに子ども一人当たり70万円とか中学生なら100万円を超えるような形で一人あたりの

国家予算が入れられている。ところが不登校の居場所に子どもたちが来ると校長が認めれば出席扱い

にされるが、出席扱いされるだけでお金が全然でてこない。だから基本的にはたくさんの人にお金を

寄付してもらい、10年ばかり年間百数十万円ずつ寄付を集めて活動していた。それがその後の大きな

力になっていったが、そういうことを組織化してネットワークをつくることがとても大事だ。 

 

1-1. 生きにくさの若者たちと共に 

2000年代に入った頃、ちょうど90年代の就職氷河期時代に就職できなかった人、それから就職は

したけれど一度仕事を辞めてしまい、その後仕事が見つからない人たちが現れはじめた。私は学習塾

をやっているので地域にたくさんそういう子どもたちがいる。卒業して大学へ行ってそれぞれ活動し

ている人もいれば、同じくらいの数の子どもたちが不安定な雇用だったり、仕事ができなかったりす

る子どもたちが地域にいたことがわかった。 

それで2000年代には、そうした若者たちの問題にもからみながら、最初は2003年「学び座」を開

設し子どもたちが私の学習塾に集り交流を持つ機会をもった。それは不登校の子どもたちの居場所は

別にあったが、不登校の子どもの居場所は親たちが「どうせ学校へ行っていても学習塾にお金を払う

のだから」と言うので、毎月7千円ずつ子どもたちの親からフリースペースを維持するためにお金を

もらっていた。ところが20代~30代の若者たちは食べることは家で面倒みてもらっているが、

「お小

遣いがほしい」とか「フリースペースに行くのに7千円だしてほしい」とかいえない。だから子ども

たちのフリースペースとはまた別のところで「学び座」をやらざるをえなかったという事情もあり、

そこに十数人の若者たちが現れた。当初は10代の終わりから20代前半の子どもたちが多いかと思っ

ていたが、実は30代の人たちが「学び座」をはじめた頃には中心を占めていた。 

「仕事工房ポポロ」をつくったのは2007年である。

「学び座」に集まってくる子どもたちが学習塾

は岐阜市郊外にあるので、岐阜駅から塾へ通うためのバス代がない、バイクに乗ってくる子もいるが

ガソリン代がないなどの理由で「今日は行けない」という連絡がたびたびあり、そういう日常で使う

小銭すら困っていることがわかり、稼げる仕事をつくろうということから「仕事工房」という言葉を

頭に付けた法人をつくった。年配の方は知っていると思うが「どぶ川学級」(不良少年たちと素人の

青年労働者の真剣勝負ともいえる集団学習の場を描く1972年公開の日本映画)というのがあり、70