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学とピアスタッフとピアが相互に育つことが可能な集団が必要である。私はその集団、つまり、社会

的な評価や統制と対峙することが可能となる集団で、自己を語り、親を語り、社会を語ることが必要

であり、そこで、意味ある人生を語るコミュニケーションが保障される必要があると考えている。 

その取り組みがあってこそ、ひきこもりによって失った機能や自尊心、社会的役割さらに人生を獲

得することが可能となる。そこに、意味ある生活や人生の獲得がある。 

ここで集団と述べたが、この集団はピア・アウトリーチャーの育ちを保障する装置だと考える。佐

藤洋作が、ひきこもりを中心とする生きづらい若者たちにとって、その生きづらさを克服する作業と

して「垂直なコミュ二ケーション」を「水平的なコミュニケーション」に組み替える作業が必要であ

ると指摘している。また、私は、自身にとって必要なことと実践体にとって必要なことを仲間やスタ

ッフとともに話し合うことが必要であると述べ、集団の質は、当事者から指摘され変革される必要が

あるという考えを示している。この集団を私は民主的集団という言葉で表している。 

これは、当事者と実践者さらには地域住民が相互の議論を通し、集団の質を変えることが可能な集

団を意味する。さらに、そうした集団を当事者と実践者さらには市民が参加し育てあげるなかで、そ

れぞれが社会的な統制と対峙する力を育てると考えている。 

佐藤洋作が指摘されている「水平的コミュニケーション」を、その実践で体験された当事者の語り

をここに示している。この当事者は「支援」という感覚はあまりなく、「自分で自分たちの働き方を

つくっていく」のを「いいな」と思える集団がそこにあったのである。ここに、まさに他者との生活

の共有があり、他者と目指す意味ある明日の共有があるといえよう。 

私は、三菱財団から補助を受けた研究の報告書で、「困った事実」を、権力を有する側-実践者も

この権力を有する存在である-の支配的価値観は、『困った人たち』の物語として一括し排除する可

能性をもつ」と述べている。 

「困った人たち」は、ニコラス・ローズが「正常性の基準(crireria)は、子ども期とその変化に

ついての科学的知識に対する専門家たちの主張に基づいて、彼らによって精巧に作り上げられる」と

指摘するように、いまある社会に適応するドミナント・ストーリーに適応するか否かといった基準が、

専門家たちによってつくり上げられている。 

ピア・アウトリーチャーは、このドミナント・ストーリーに、自身に続く仲間たちを適応させる働

きをする存在ではない。もしドミナント・ストーリーを強いるならば、彼らは、そのピアを自身の仲

間として認識することがないだろう。 

この調査時に聞き取りをしたあるピア実践者は、ドミナント・ストーリーを強いる実践者の権力性

を「自分たちの行為が自分たちだけの価値観にもとづく正義を振りかざしていることに気づいていな

いかのようだ」と、実践者が自分たちの支援を受けない人を困難事例とする基準に対する厳しい問い

かけを行っている。ここにみるように、権力的につくりあげられる正常性の基準を、実践を展開する

上での基準とし、アセスメントを行い実践展開するならば、まさに、実践者は権力の使い手となる。 

 

3.ピア・アウトリーチャーと協同的関係性 

では、実践において、いかなる関係性が必要であろうか。私は、そこに求められるのが「支援―被

支援」関係を超えた協同的関係性であると考えている。 

 

3-1.協同的問題解決の「戦術」としてのピア・アウトリーチ 

協同的問題解決の「装置」にとってもっとも問われるのは、その実践哲学である。この実践哲学は、

実践者、当事者、地域住民がそれぞれにもつ異なった生きづらさを、共に解決することが可能となる

哲学でなければならない。 

しかし、今日、競争主義社会のなかで、他者との相互批判を通し他者と共に育つことが至って不得