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をし、優しい言葉を使う者であっても、その人が行う支援に暴力性や権力性をみることがある。 

 私たちは、その「権力性」「暴力性」を克服し、プロ・ピアの実践者と当事者やその家族、地域住

民がそれぞれの役割を果たし、ひきこもり当事者が主体的に生きていくことが可能な社会を築く実践

は、いかなる実践哲学と方法をもつべきかを考えなければならない。 

私たちは、いま国家権力が個々の人生に法や制度を通して介入している事実と、新自由主義化が進

み自己責任論が社会を襲うなかで生じている介入について考える必要がある。 

 まず、国家権力の介入の一つには、2000年から施行されている精神保健福祉法第34条がある。そ

れは、民間の業者が病院への移送を行い人権上の課題が生じる事例が多くなったことと、1999年暮れ

から2000年年頭に明らかになった新潟女児監禁事件を背景として生じた。 

長期にわたりひきこもる当事者を、診察前から医療保護入院と決めた上で精神保健指定医が診察を

行う処置をとり、応急病院への搬送を行うことを合法化したのが、この34条である。これは、まさ

に、早期治療・早期対応の名で迫る「権力」によるひきこもり当事者の人生への介入装置であると言

えよう。 

 

1-2.「正常」と「異常」を分ける暴力 

こうした権力的な介入は、精神の正常と異常の区別にまで及ぶ。誰が、どのような基準で「正常」

と「異常」を分けるのか。 

これには、いくつかの基準がある。まず、一つ目が、適応的基準がある。これは、所属する社会・

共同体・集団に適応している状態を正常とし、そこに適応できずに社会的活動を行えない不適応状態

を異常とする基準である。ただ、ここで考えていただきたいのは、適応できているか否かの基準は、

誰によって設けられるのか。例えば、これ以上傷つきたくないと「ひきこもって」いる人がいるかも

しれない。その人は、自身を懸命に護り生きているが、「ひきこもって」いるという事実は、社会へ

の不適応とみられるかもしれない。 

次に、価値的基準である。これは、その社会で守るべき規範やルールを遵守する意識を持っている

者を正常とする基準である。これも怖い判断基準である。社会規範は、慣習や道徳、社会通念、世論・

常識といったものと、法律や合理的な理論体系に基づくものに大きく分類される。その両方とも、そ

の時々の社会の本流というか、社会で容認される価値で基準が創り上げられる。 

三つめが、統計的基準である。これは、統計で該当する集団の中で、平均的な行動・思考・価値観

を持つ標準的な人格像を求めるものである。これは、多くの場合、データ・サンプルを集積し、統計

学的処理を行い測定する。留意しなければならないのは、過去には、アメリカの黒人差別を進めるた

めに、意図的になんらかの課題がある黒人と優秀な白人をデータとして選び統計をとった歴史がある。

 

次に、病理的基準とは、病理学的知見や医学的診断基準を前提として行う医学的検査や問診によっ

て、健康と診断されれば正常、病気と診断されれば異常とする基準である。これについては、DSM-5

の編纂にあたってきた精神科医のアレン・フランセルが「正常を救え」という本のなかで、「なぜ医

師は結論に飛びつくのか。なぜ観察し、見守り、情報を集め、成り行きを見定めないのか。答えは簡

単である。DSM-5に載っている診断が下されたときしか、診察に対して保険金が支払われないことが

多いからだ」と述べている。ここに、まさに、この病理的基準の問題性が現れている。 

私たちは、実践者の背景に「異常と正常」を判断する権威性が存在しないのかを常に問われなけれ

ばならない。 

 

1-3.「支援―被支援」関係にみる権力性 

私たちの実践を左右するものに、実践者が、当事者や家族をどのような視点でとらえるかというこ

とがある。ここで大津さんが指摘するように、実践者に「弱者を救う」という思い上がりがないのか、