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た。ハンナ・アーレントとはドイツの女性思想家だが、ヒトラーのナチス政権下でアーレントはユダ

ヤ人のため迫害を受けていた。昼間は工場労働の労働者だが難しい哲学思想史の本をたくさん書いて

いる。まだ第一次産業の単純反復作業中心の製造が中心だったときに彼女は「賃金を得るという労働」

は誰でもできると言っていた。だけども彼女は「社会に貢献するという労働」と「市民として行動す

る労働」、この3つの労働を手にしない限りは働いたことにはならないといっている。これをあえて

メンバーたちに挑戦的に言うと「ハンナ・アーレントの考え方は私たちには無理だ。そんないとも簡

単に働けないが、市民として行動することからならやれる可能性がある」という。何故そんなことを

言うのかというと「市民として行動する」という言葉は非常に堅い言い方だが、今「つながるカフェ」

でやっているのは、「長谷川さんみたいな援助職はずるい。働くことをバラ色のように説明すること

がある。もし働くことがバラ色だったらあれだけ過労死、過労自殺する人はでないだろう。あんなに

鬱の患者はでないだろう。何故働くことはすばらしいけれども危険に満ちていると言ってくれないの

か」と何度も言われたことがあるが、その通りだと思う。要するに利害関係がカチッと決まっていて

しっかり与えられた仕事を全部こなさなければいけない。でもこなしても誰もほめてくれない労働現

場は本当に厳しい。「だったら利害関係のない働く場があればよい」とメンバーが言って、横浜の商

店街にアーケードがあり、個人商店が多く並んでいるがその裏通りに「つながるカフェ」ができた。

商店街は後継者不足で、八百屋や魚屋では高齢者が腰を曲げながら市場からものを仕入れて並べて店

舗の掃除をしている。メンバーたちはそれをみていて掃除の部分だけでも手伝えるのではないかと言

い出した。許可もなく勝手に掃除をしはじめた。そのとき八百屋の店主が「どこの若い連中なんだ。

アルバイト料金は払えない。何やっているんだ」といった。私も参加し掃除していたが、ある若者が

「あそこにあるつながるカフェに行っている者です」と小声で言った。店主は「つながるカフェさん

か」と述べ「えらいね。今の若い連中はどうしようもない者ばかりかと思っていた」と語り、市場で

仕入れた山形産の佐藤錦のさくらんぼを振る舞ってくれた。つまり賃金はもらわないけど褒めてもら

える。想定外の報酬をもらえたりする。だからこの方向でやっていく。いきなり就労は難しい。だか

らゴールとは何だろう。通信に自分の経験を載せることも市民として行動していることだろう。だか

ら就労がゴールというのは嘘だと思う。 

私は当事者本人を変えることはできないと思う。変えられるのは本人との関係と本人を取り巻く環

境は変えられる。でも関係と環境は変えられるけれども、こちら側が良かれと思って関係と環境を変

えたけれども本人にとってはとても迷惑だということもある。そこは気をつけなければいけない。で

も本人を変えるというのは、本人が非常に傷つく経験になる危険性があるからやめた方がよいだろう。

だから勝手に訪問し引き出すということは絶対にしてはいけない。 

 

3. 支援-被支援の垣根を越えて 

次は支援される人と支援する人との関係である。これは「父権主義的関係」で、どうしても対等な

関係にはならない。この「支援される・支援する」というのは、社会そのものの関係性が支援の中に

投影されている。だから親・支援者に経験者が入ってほしくない。そこに経験者が入るといくら経験

していたとしても、経験のない支援者や見当はずれのアドバイスをする親とまったく同じになってし

まう。それではどうしたらよいか。理想かもしれないが、「みんな当事者作戦」というのはどうか。

本人も困っている、親も困っている、当事者経験者も困っている、私のような援助職も困っている。

「さあ困った」というところで、その共通項のところでわかちあっていくことが大事なのではないか。

だから当事者経験者が自分の失敗や大変さや不安や困難を語るということは、本人が手にしている困

難と共通項が多い可能性がある。それで当事者経験者は自分の親を通しながら、本人の親の困難さも

共有ができる。このようにみんなで分かち合っていくというのはどうか。だから私も本人に対して白

状する。「私もどうしたらよいかわからないし、もともとアドバイスしようと思っていないけど、ど