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なくさせるというリスクを持っているのではないか。だから方向性はあってもモデルはない。その都
度本人とお互いが石橋を叩いて渡るとか、そういう関係性の中で唯一無二の一回限りの支援が誕生す
るのではないかと考えている。
1-5.ひきこもりのゴールは外出や就労なのか
よく言われていることだが「ひきこもりのゴールは外出や就労」ということを誰が決めた話なのだ
ろうか。つまりこれは多数派の価値観、社会常識や社会通念だ。だからそれが正しいわけではなくて、
多くの人たちが根拠もなく信じて受け取って考えていることだ。私たちはこの「分かりやすい物語」
をどうやって捨て去るかということが大事だ。そうしなければ一人ひとりのゴールを見つけられない。
私の考えだがひきこもりは、社会に出ることに慎重な態度から生まれる苦悩を表現する若者たちだ
とみている。だからそういう若者たちに会ったらまずは「ご苦労さま」と慰労の言葉で迎えている。
また彼らは自死しないで生き延びてきた若者たちだと思っている。だから初めて会ったときにケース
バイケースだが、
「つながるカフェ」で挨拶するときには、
「あなたはとても辛かったけれども自死を
選択しなかったんだよね。ひきこもってくれてどうもありがとう」と言うことにしている。「だけど
ひきこもりがこんなに苦しかったとは想像していなかったよね。そのひきこもりをずっと手にして暮
らしてきた。本当にご苦労さまでした」と、そういう形で挨拶することがとても多い。
このように考えるとひきこもりのゴールとは無理をしないで自分を大切にする環境をどうつくる
のか一緒に考えることで、私はひきこもりを回復するものだとは思っていない。ひきこもりの人はず
っとひきこもりだと思っている。違う言葉で表現すればひきこもりのゴールは「開きこもり」だと思
う。外出できて人と関われるようになる。でも一人の方が楽だ。そういうことがゴールではないかと
思う。だからひきこもりを克服するものとして提案しないということを心がけている。
なぜひきこもりの若者たちを社会に近づけようとするのだろうか。私たちは例えば全身性障害者、
全介助が必要な身体障害者、車いすに乗っている人たちは多くの場合、その人たちに対して「そんな
無理しなくてもいいです。あなたはそこにいるだけで凄い意味がある」という。しかし、ひきこもる
若者たちにはそのようには言えない。全身性障害者の人は現象的に見てわかる。でもひきこもりの若
者たちは見る限りにおいては動けそうに見える。だけど心のありようは、もしかすると心がガチガチ
に動けないのかもしれない。全身性障害者の人たちに対しては、自力で駅のプラットホームに上がれ
るようにエレベーターが設置されている。つまり社会から近づこうとしている。やはり不登校やひき
こもりの問題を考えるとき、社会がひきこもっている若者たちにどのようにして近づいていくかがと
ても重要であろう。
1-6.ひきこもりと社会的包摂
ひきこもりの状態があって「社会・家族の無理解」「制度・資源の不備」などの条件を通ると社会
的孤立状態になる。そこに適切な支援がなかったり、放置されたりすることによって社会的排除にな
る。つまりひきもりという言葉で言われているが、それは社会的孤立問題や支援がうまくいかないこ
とにより、社会的排除問題になっているのではないか。これは社会的包摂(ソーシャルインクルージ
ョン)、ひきこもっていることで差別を受けない、不平等を受けない、そういう社会をどのようにし
て構築するのかが大事な課題だと思う。だから私はひきこもりが個人的な問題ではなく社会的な問題
だととらえないとそこには税金は入ってこないし、そうした支援が組織化されていかないと思う。し
かしだからといって政策や行政がコントロールするということがあってはいけない。あくまでも本人
の参加と意志尊重に基づくことが大事になってくると考えている。
今まで専門職支援、NPO支援、行政支援などが親や本人を支援していたが、当事者や経験者による
支援もある。ただし専門職と当事者経験者の間には温度差があったり壁があったりするのではないか