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はじめに
私はソーシャルワーカーとして二つのNPO法人理事をしている。一つ目は、横浜にあるNPO法人「つ
ながる会」である。ここでは2011年3月1日に不登校ひきこもり経験をしている方や生きにくさを
抱えている若者のたちが通える地域活動支援センター「つながるカフェ」を開設している。二つ目は
NPO法人「フリースペースたまり場」で川崎市夢パークというところにあり、毎日60名の不登校の子
どもたちが来ている。そこの副理事長をしている。
1.相談団体機関(保健所・精神科クリニック・居場所)の経験から
ひきこもりの支援には単一のモデルの右肩上がりのリハビリテーションモデルがいまだにあって、
働くことがゴールだとか、一人ひとりゴールが違うにもかかわらず、政策主体の国や地方自治体、と
きには援助職などの頭の中にある「単一ゴール論」が、ひきこもり当事者たちにさらなる負荷をかけ
ておりそこが大きな問題ではないだろうか。やはり個別化して、一人ひとりのゴールがあってよい。
そういう文化をつくっていかなくてはいけないと常々思っている。
1-1.ドヤ街で出会った住居のない若者たち
今までの支援を振り返ると、私は当初横浜市の社会福祉職の公務員だった。最初は寿町というドヤ
街(日雇い労働者が多く集まる簡易宿泊所のある街)の相談機関からはじまった。横浜のドヤ街は横
浜スタジアムや中華街、官公庁があるが、そこに隣接してドヤ街がある。横浜のドヤ街の形成は非常
に問題を抱えていて、行政が積極的につくったドヤ街である。ところがその街に住めないで、横浜ス
タジアムの軒下、中華街の裏通り、山下公園の樹木の中でホームレスになっている人たちがおり、聞
きとりの調査をすると当時20~30代の人たちがいて、将来「ひきこもりの人たちがホームレスにな
る」みたいなことが言われていたりした。それが正しいかどうかは別として、今でいうひきこもりだ
ったのではないかと思われる人たちがいた。今日の8050問題ではないが両親が再婚して一緒に暮ら
せなくなるとか、病気で入院することになったとか、両親から「出ていけ」と言われたため出ていく
しかなかった。つまり街の中のドヤにも住めない。周辺(マージナル)の中で一番不安定な暮らしを
しなければならない人たちのなかに20代後半~30代のひきこもり人たちがいた。インターネットカ
フェや漫画喫茶があればそこに住んでいたと思うが当時はそれがなく路上生活者になる。住居のない
若者たちの背景、それは要するに人間関係で傷つくとか、集団が苦手で仕事をしても長続きはしない。
だけど背景をみると病気や障害はなさそうで、話していると後退していた青年のような印象を受けた。
1-2.日本で最初に開設した家族教室
その後、保健所の精神保健福祉相談員になった。横浜の戸塚区は50万人の規模の区だったので3
つに分区をすることになり、その内のひとつである泉区にできた保健所の職員に3年目で赴任した。
保健所にはケースファイルという記録するものがある。それは公費医療負担の意見書の写しが送られ
てくるとか精神科の病院に入院したり退院したりすると、そのコピーしたものが送られてくるが、そ
のためにファイルを資料に挟み込んでいく作業をした。そのファイルを分析してみたところ精神科の
医療機関からの書類がない。書かれている内容をみると、嘱託医、ソーシャルワーカーが同席した面
接だが、そこの所見欄に精神疾患の可能性はなさそうだと書いてあるファイルが12万人の人口の中
で700件も見つかった。そのため毎月1回発行される市報の裏側にある区報の一面に、病気や障害が
なくても家に長く滞在して外出ができなくて人間関係が苦手な人の相談は保健所で対応できること
を掲載した。そうすると保健所の電話が鳴りやまず2か月くらい先まで面接の予約で埋まってしまっ
た。そこで相談が追い付かず2か月も待たせてはいけないのではないかと考え相談と並行して家族教
室を開始した。当然保健所なので統合失調症の人たちの家族教室、アルコール依存、薬物依存、ギャ